ガルウイングの「300SL」はル・マンも制覇! 50年以上前にエアブレーキを採用していたメルセデス・ベンツのレーシングカーたち【後編】

市販車開発に生かすためのレーシングカー造り

メルセデス・ベンツは2023年、自動車の発明メーカーとして1886年創業以来137年となり、さらなる発展を遂げている。AMWでは「メルセデス・ベンツの年輪」と題し、「メルセデス・ベンツの歴史」、「メルセデス・ベンツグループ社の概要」、「メルセデス・ベンツのレーシングカー」、「メルセデス・ベンツのプロダクションモデル」、「メルセデス・ベンツの車造りと安全性」に分けて紹介。今回は1950年以降のレーシングカーについて解説する。

1950年以降の主なメルセデス・ベンツのレーシングカーとは

メルセデス・ベンツの年輪は、モータースポーツを抜きにして語る事は不可能である。つまり、メルセデス・ベンツは長年モータースポーツ活動で磨き上げた革新技術をプロダクションモデルに導入しているからである。下記に紹介するレーシングカーは、ダイムラー社/ベンツ社、そして1926年合併後のダイムラー・ベンツ社が製作した主なレーシングカーである。

【1952年】ガルウイングドアが特徴的な300SL(プロトタイプ)

高性能軽量スポーツカー「300SL」は、メルセデス・ベンツの歴史上欠くことのできないスーパースターだ。この「SL」の意味はドイツ語でSuper Leicht(スーパー・ライヒト)、日本語では「超軽量」の意味。設計部長のルドルフ・ウーレンハウトの構想は、自動車というより航空機に近いものと言われた。

当時、自動車では考えもつかなかった複雑な力学計算がなされ、スペースフレームは何本ものパイプをつないで溶接された。結果、フレーム自身の重量は約80kg前後、エンジンは3L直列6気筒SOHC、3個のソレックスキャブで170ps/5200rpmにチューンされ、全高(重心)を低くするため、左45度に傾斜して搭載。

この2シーターはスペースフレームのためにサイドシルが非常に高く、思い切ってルーフセンターが飛行機のようにヒンジの上に開くドアを採用している。このドアは左右両方を同時に開けると、ちょうど「かもめが翼を広げたような形」になるところから、「ガルウイング」という名前が付けられた。

1952年の5月、ミッレ・ミリア(イタリア語で1000マイル)ではカール・クリンクが2位になり、まずまずのデビューレースとなった。そして最大の勝利はル・マン24時間耐久レースで1-2位を獲得。

またニュルブルクリンクのレースでもオープンの300SLが1-2-3位を独占する。続いて当時のスポーツカー・レースのビッグ・イベントであるカレラ・パナメリカーナ・メキシコのレースでカール・クリンクが優勝し、2位はヘルマン・ランクが獲得した。300SLのプロダクションモデルは1954年により美しく改良され、「世界初のガソリン直噴エンジン」を搭載。240psを誇り、世界のセレブたちに愛用された。

【1954年】シルバースクリューマーの異名をもつW196

戦後、レースから遠ざかっていたメルセデス・ベンツは、1954年に定められた、自然吸気2.5Lもしくはスーパーチャージャー付きの750ccのマシンで戦うF1に挑戦することを決定。結果、メルセデス・ベンツ技術陣は自然吸気2.5Lエンジンで参戦する。

開発したコードナンバー「W196」はスペースフレーム構造。ボディはオープンホイールとエアロダイナミックなストリームライナーの2タイプが造られた(テクニカルコース用と高速コース用)。エンジンは2.5L直列8気筒DOHC、ボッシュ・ダイレクトフューエルインジェクションで260psを発揮する。高さをセーブするために右に70度傾けて搭載された。

「シルバースクリューマー」の異名をもつ、この「W196R」は1954年にデビュー。フランスGPではファン・マヌエル・ファンジオとカール・クリンクが1-2フィニッシュを果たす。その強さは圧倒的で、1954年および1955年の両シーズンでこの名手ファン・マヌエル・ファンジオは8つのGPで優勝、スターリング・モスが1レースで優勝し計9つのGPに勝ち、2年連続ワールドチャンピオンとなった。

【1955年】ミッレ・ミリアやル・マンで活躍した300SLR

W196の機構を使い、もうひとつのスポーツカー・エディションが同時に造られている。開発コードはW196Sで、通称「300SLR」と呼ばれた。エンジンのみスポーツカー・チャンピオンシップのレギュレーションに合わせ、3L・310ps仕様にチューン。

この300SLRのデビューは1955年のイタリアのミッレ・ミリアで、スターリング・モスとジェンキンソンのコンビが優勝したのは有名である(カーナンバー#722は午前7時22分にスタートした意味)。とくにル・マン・タイプは最も大きな特徴を持っていた。このル・マン・タイプはコーナー入り口で制動をかけるとき、リアの大型エアフラップが持ち上がり、高速サーキットでの厳しいブレーキングを助ける方式を採用。そのエアブレーキフラップを使用した姿はじつにダイナミックで、大いにル・マンの観衆を沸かせた。

【1955年】ル・マンの悲劇

1955年6月11日午後4時、マッジ伯のスタートの合図の元に60人のドライバーは一斉に自分のマシンに駆け寄った。早速、グリーンのジャガーに乗るホーソンが先頭に立つ。自分のマシンを限界ギリギリまで無理をさせる走り方だ。

一方、300SLRに乗ったファンジオは芸術と言っていいリズムのハンドルさばきで、ぴったりとホーソンに付いた。ストレートではジャガーが伸びる。だが、リアのエアブレーキを開いて急減速した300SLRはコーナーの手前で差を一気に詰めていく。

このようなレース展開でスタートしたが、6時20分、グランドスタンド前のストレートを3台の300SLRが200km/h以上のスピードで通過する際、前方のクルマが走路妨害にあってスピン。1台の300SLRが巻き込まれて大破し、その影響により観客席で多数の死傷者を出してしまった。

レース史上最大となったこの事故により、メルセデス・ベンツはその性能の限界を見極めずにF1を含む全てのレース活動を休止した。しかし、メルセデス・ベンツが長年レース活動で磨き上げた技術をプロダクションモデルに導入し、技術開発をするという目的を十分に果たしたものと言える。

その後、1956年からラリーに参戦したことはあったが、あの「シルバー・アロー」がサーキットに復帰するには長い時間を要した。そして、メルセデス・ベンツが再び参戦したのは1985年からであることはすでに知られている。それも最初はスイスのレーシングカー・コンストラクターであるザウバーのエンジンサプライヤーという目立たない形であった。

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そして現在は「シルバー・アロー」が本格的にF1レースに復帰し、大活躍しているのは周知の通り。メルセデス・ベンツのレーシングカーにも、すべてに一貫した哲学「最善か無」があるのだ。