【特別インタビュー】純正品より厳しい基準で消費者の安心・安全を守るJASMAの活動とは? JASMA事業部長水口大輔氏に伺いました

スポーツマフラーの安心・安全を守るJASMA

JASMA(ジャスマ:日本自動車スポーツマフラー協会/The Japan Automotive Sportsmuffler Association)がNAPAC(一般社団法人:日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会)に合流したのは、2022年10月のことだった。

2004年にASEA(オートスポーツ・アンド・スペシャル・イクイップメント・アソシエイション)とJAWA(ジャパン・ライトアロイホイール・アソシエーション)が合流することで生まれたNAPACは、日本における自動車用品や部品アフターマーケットにおける振興を図るための調査研究などをおこない、かつ、加盟社が製造するパーツの品質を担保することで、車社会の安全と発展に寄与する、という目的を持っている。

スポーツパーツ製造メーカーがおもな加盟社となるASEAと、アルミホイール製造メーカーが加盟するJAWAに加えて、スポーツマフラー製造メーカーが加盟するJASMAが加わったことで、NAPACは真の意味で日本のアフターマーケットにおける自動車用品や部品の主要な部分を網羅する団体となった。ではなぜ、JASMAの合流が遅れたのか。そもそもJASMAというのはどういう目的を持った団体だったのだろうか。

JASMAが設立された目的とは

われわれの疑問に対して、NAPACのJASMA事業部長であるHKS代表取締役社長でもある水口大輔氏にお話を伺った。

「JASMAは私たちの先輩がつくられた組織です。なので先輩方から伺ってきた話をお伝えすることになりますので、その点のご理解をいただきたい、ということを先に申し上げておきます。

JASMAが組織として発足したのは1989年8月のことでした。しかしそれ以前から、なんらかの形でメーカーが集合し、統一された基準を元に規制を設けていくべきではないかという話し合いはおこなわれていたそうです。それまでは各マフラー製造メーカーが、各自で基準を設けてマフラー開発をおこなっていたのです」

日本でクルマをチューニングするというのは、1960年代のカミナリ族、1970年代後半から1980年代には暴走族が問題視されていたこともあって、「悪」というイメージが根強かった。とくに1980年代に入ってからは、合法/違法を問わずオートバイやクルマを改造する人が増えてきた。そこで問題となったのが、音量である。

「その当時のマフラーメーカーは、触媒はノーマルのままとし、それ以降を交換することで性能向上や音質改善をおこなおうとしていました。そうすると、より高い性能を求める人は排気抵抗を下げるために触媒を外してしまおうと考えるわけです。触媒を外すことは当然違法となりやってはならないことで、さらに問題となるのはマフラーの消音器部分を取り外したり、マフラー自体を直管にしたり、エキマニ以降のパーツを取り払ってしまう行為です。そのときに音量が大きくなってしまうのです。

一般の人からすると、法規に則ったスポーツマフラーへの交換と、これらの到底マフラーとは呼べるような代物ではない違法行為も、同じように見られてしまう恐れがありました。

そこで、この流れはまずいということから、マフラーメーカーが集まって統一した自主規制値を設けていこうと動いていたわけですが、そこで起きてしまったのが江ノ島の事件でした」

1989年4月、片瀬江ノ島駅前ロータリー内で暴走族が集まっていたところに、新聞社の記者が鉄パイプを持って注意をしにいき、その鉄パイプを奪われてしまって殴られ、亡くなるという事件が起きた。加害者は集まっていた暴走族ではなく、たまたま居合わせた少年ふたりで、被害者は酒に酔った状態で無関係の少年を注意してしたという真相と報じられたのはかなり時間が経ってからのこと。

事件発生当時は、暴走族が鉄パイプで新聞記者を殴打したということのみが報じられ、また、毎夜毎夜暴走族が駅前に集結し騒音で迷惑をかけていたということも報道された。実際、その騒音がこの事件の遠因となっていたのは疑いようのない事実。そして、この事件以降、スポーツマフラーの売り上げはそれ以前の半分以下にまで落ち込んでしまった。

「この事件が大きなきっかけとなって、話し合いが加速することになります。マフラーに対する規制が厳しくなっていくことは予想されていましたが、それよりもさらに厳しい自主規制を業界として定め、その団体で認められたものなら安心・安全に使える、と認可してもらえるようにしていこうと考えたのです。そこからJASMA、日本自動車スポーツマフラー協会が誕生しました」