ル・マン24時間で3連覇を果たした
レギュレーションで速さを制限すると、技術者が頑張ってまた速さを取り戻してしまう。レースはいつもこうしたことを繰り返してきました。ポルシェが4.5Lフラット12を搭載した「917」でル・マンを連覇した当時、FIA(世界自動車連盟)の下部組織として世界のモータースポーツを統括していたCSI(Commission Sportive Internationale=国際スポーツ委員会)は、1972年に向けて再度レギュレーションを変更することを決定しています。これはスポーツカーによる世界選手権を、新たにスポーツカーの呼称となるスポーツ・プロトタイプカー1本に絞ることにしたのです。フォードやポルシェは身を引くことになり、新たな主役が登場することになります。
手作りのレースカーで始まったマトラ・スポールの歴史
新たにル・マン24時間レースの主役となったのは、フランスのスポーツカーメーカー、「マトラ・オトモビル」でした。もっとも、彼ら自身の商品としては「マトラ・ジェット」を筆頭としたミッドシップ・スポーツがメインで、正直なところ目立った大ヒット商品はありません。
むしろジャッキー・スチュワートが初めてワールドチャンピオンに輝いたときの愛機、マトラ・フォードを筆頭とするF1GPマシンや、これから紹介するル・マンで3連覇を果たすことになるスポーツ・プロトタイプカーの方が有名で、自動車メーカーというよりもレーシングカー・コンストラクターとしての知名度の方が高いかもしれません。
そんなマトラは、シャルル・ドゥーチェ(Charles Deutsch)とルネ・ボネ(René Bonnet)、2人の若者が協力して自分たちがレースを楽しむためにシトロエンの「11CV」、いわゆる「トラクシオン・アヴァン」をベースにレーシングマシンを手作りしたことで始まった小さなコンストラクターで、2人のイニシャルを繋げた「DB」(Automobiles Deutsch et Bonnet)が源流となっています。
しかし、ドゥーチェとボネは袂を分かつことになり、それぞれ自ら思うがままのクルマ造りを進めていくことになりました。ボネは「オトモビル・ルネ・ボネ」を立ち上げ、DB時代のモデルをベースに、新たにルノーのコンポーネントを使ってレーシングカーやロードカーを仕上げます。
オトモビル・ルネ・ボネはミッドシップ・スポーツカーの「ジェット」や、それをベースとしたレーシングカーの製作を続けていました。ボディの素材であるグラスファイバー(FRP)の供給元となっていた会社が、ミサイル製造から事業を拡大していったコングロマリット(複合企業)の一員であったことから、経営危機に陥ったオトモビル・ルネ・ボネを、コングロマリットの主力、航空機関連のマトラの傘下に収めてマトラが自動車産業に進出する足がかりとなりました。
具体的には社名を「マトラ・スポール」とし、航空機会社として知られたダッソー社の出身で若手エンジニアだったジャン-リュック・ラガルデールが経営責任者として配されていました。マトラ・スポールと名を変えてもしばらくは、オトモビル・ルネ・ボネ時代にも生産していたルネ・ボネ・ジェットをマトラ・ジェットと名を変え販売していましたが、やがてオリジナルの「M530」を販売しています。
フォーミュラと並行してスポーツカーレースにも挑戦を開始
その一方でマトラ・スポールは、スポーツカーのメーカーらしく、その企業イメージを引き上げるためにモータースポーツ参戦を決め、サーキットレースではまずF3からレース活動をスタートさせています。F3ではジャン-ピエール・ベルトワーズを擁してフランスチャンピオンを獲得。F2でもフランスのナショナルチャンピオンを手始めにヨーロピアンチャンピオンに輝いています。そしてF1GPではジャッキー・スチュワートを擁するティレル・レーシングとジョイントし、参戦2シーズン目には見事チャンピオンを獲得することになりました。
フォーミュラで着実に頭角を現してきたマトラ・スポールですが、やはりル・マン24時間を頂点とするスポーツカーレースにも惹かれるものがあったのでしょう。しかしDBやオトモビル・ルネ・ボネといった頃とは時代も状況も異なっています。
とくにフォーミュラではF2からF1GPへとステップアップを考え始めた頃でしたから、やはりスポーツカーでも当時のマトラにふさわしいパッケージが求められていました。そこでジェットをベースにして試作マシンを製作した後、BRMの2L V8エンジンを搭載した「M620」を製作しプロジェクトは本格化。さらに1968年にはプロジェクトが一気に拡大・進捗していきました。
エルフ石油のスポンサードとフランス政府のバックアップが決定し、自らF1GP用に3L V12エンジンを完成させたことに加えて、スポーツカーの世界選手権自体が主役であるスポーツ・プロトタイプカーの排気量を3L以下に制限することになったのです。
こうなるとル・マン24時間の総合優勝に加えてスポーツカーの世界選手権でチャンピオンを獲得する可能性も見えてきたのです。そんな1968年シーズン用にマトラ・スポールでは1967年の主戦マシン「MS630」を使用し、BRMの2L V8エンジンを自ら開発した、F1GP用と基本的には共通の3L V12にコンバートした最新仕様のMS630をル・マン24時間に投入します。
テストでは不安材料も多かったのですが、学生運動や労働者のストライキの影響もあって9月に延期された本番では快走を見せて2位に進出し、24時間レースの21時間目までその順位をキープしたのです。ラガルデールら首脳陣のモチベーションは一層高まっていきました。
ただし5Lのエンジンが許されたスポーツカーの、車両公認のための最低生産台数が50台から25台へと引き下げられた結果、1970年と1971年のスポーツカー選手権とル・マン24時間はポルシェ917を軸に展開されることに。3L V12で戦うマトラ・スポールはさらに2年間も雌伏の日々を過ごさなくてはなりませんでした。
マトラ・スポールは予選から「横綱相撲」を見せつけた
そんなマトラ・スポールにとって1972年シーズンは、待ちに待った決戦の時となりました。大排気量のスポーツカーがシリーズ戦から締め出され、3Lのスポーツ・プロトタイプカー(呼称としては単にスポーツカーを名乗っていました)1本に絞られたのです。
ただしマトラ・スポールではル・マン24時間に全力を注ぐためにシリーズ戦をパスするほどの入れ込みようで、用意したマシンは新型の「MS670」を3台、バックアップ用に前年モデルの改良型、「MS660C」を1台、ル・マンに持ち込んでいました。
シリーズ戦を連戦連勝でタイトルを獲得したことで最大のライバルと目されていたフェラーリが、耐久性に問題が見つかったことで直前にエントリーをキャンセルしたこともあり、マトラ・スポールは予選から「横綱相撲」を見せつけたのです。
決勝でもスタート直後に1台のMS670がコンロッドを折ってリタイアしていましたが、残る2台フランソワ・セヴェール/ハウデン・ガンレイ組とアンリ・ペスカロロ/グラハム・ヒル組がトップを争い、少し遅れてMS660Cが続く展開がスタートから23時間近くも続きました。
MS660Cが最後の最後にミッショントラブルから後退したものの、2台のMS670は何度か順位を入れ替えながら24時間を走り切り、ペスカロロ組-セヴェール組の順にマトラは嬉しい初優勝を見事な1-2フィニッシュで飾りました。
マトラ・スポールに初優勝をもたらしたヒルは、F1GP(1962年と1968年のチャンピオン)とインディ500マイル(1966年ウィナー)に続いて世界三大レースを制した最初のドライバーとなりました。また翌1973年、そして1974年とマトラ・スポールはル・マン24時間の3連覇を果たすのですが、いずれもドライブしていたペスカロロが個人でも3連勝となる大記録を達成したのです。